痛み 痛みの歴史と現在
福井県坂井市春江町の整体院セラピストハウスです。
当院に来られる方で「痛み」を抱えた方は多いのですが、痛みについて考えた事がある方は多くはないように思います。
痛みについて、説明したいので、その前段階として痛みの歴史と現在について概説してみようと思います。
ちょっと小難しい話になるので、興味がない方は飛ばして頂いても全く構わない内容です。
痛みの歴史
「痛み」という言葉は英語では”PAIN”と表現されます。日本語で痛みというと「痛み」という「感覚」を指すのですが、英語で”PAIN”というと「感覚」以外に、「罰」という意味が含まれてきます。ギリシャ語の”poeine”に語源を持つのですが、”PAIN”には神からの罰という意味が含まれています。そして“poeine”からは“penalty”(=刑罰)という言葉も生まれたそうです。そのため、敬虔なキリスト教の方との会話中に”PAIN”という言葉を使う時には、その背景にある概念に注意しないと誤解を招く事があります。日本語の「痛み」という単語には「感覚」しか含んでいませんからね。
また、「痛み」に対する考察も、西洋では哲学者や神学者が盛んに行っていたようです。18~19世紀にかけて、ジェレミー・ベンサムやマルキ・ド・サド(←サディズムの語源になった方です)らによって論じられていました。その軌跡で何冊も本がでているほどの量になるので詳細は割愛します。
それに対して、日本では哲学としての「痛み」が論じられたという記録は見受けられません。
私は哲学の専門家ではないため、誤解がありましたら申し訳ありません。指摘して頂けますと、認識が改まります。
そういった背景があるためか、近年は日本でも「痛み」に対する理解を改めようという流れになってきています。
「痛み」の理解
日本語の「痛み」も「感覚」だけではなく、「感情・情動」も含んで理解しましょう。という流れになってきています。
抽象的な表現なので、具体的に例を提示します。
注射する時の「痛み」は、旧来であればチクッとしたあの「感覚」を指すのですが、現在は「感覚」だけはなく注射に伴う体験に基づいた「身がすくむような」「嫌な」「うわぁ・・・」「逃げたい」といった「感情・情動」も「痛み」として捉えるようになってきています。
詳しくはInternational Association for the Study of Painのモントリオール宣言をご覧下さい。
https://www.iasp-pain.org/DeclarationofMontreal?navItemNumber=582
では、その変化によって何が変わったのか?
「痛み」の認識
従来の「痛み」は、他者からみたものでした。現在は「痛み」は自己がみるものとなっています。
例に注射を指す時の痛みを取り上げます。
同じ注射をする場合、Aさんにはとっては少し眉をひそめる程度だったとしても、Bさんには逃げ出したくなるような恐怖かもしれません。
この場合、従来であれば、AさんとBさんは同じ痛みを感じたとされます。しかし、現在は、AさんとBさんは違う痛みを受けたとされます。痛みを客観で理解するのではなく、主観を理解しようとしましょう、というのが現在の理解の仕方です。
個々人、それまで経験してきた背景が違いますからね。
生理学的にいうと、従来は侵害刺激に対する求心性のシナプス伝達だった事を、現在は伝達された電気刺激を受け取った脳としてみようという事になります。
私は、痛いというのであれば、それがその人の痛みであり、苦しみである。というように捉えるようにしています。
個人的な思い
「痛み」に対する理解は、私がこの仕事に携わるようになってから大きく変わってきていますが、半面、難しさも感じます。私はお客様の痛みを取り扱う事が多い仕事をしていますが、その痛みを理解できる方が仕事がしやすいです。ですが、現在の解釈では、「お客様の痛みの理解ができない」という前提に立たざるを得ません。この辺りは、日々ジレンマを感じつつ、向き合っていくしかないともどかしさを感じています。
そもそも他人を理解なんてできませんよね。
今夜の晩御飯に家内が何つくってくれるかすら、いまだに分かりませんもんね。
私に一番近くいてくれる人間なんですけどね。
まとめ
昔は痛みは客観で理解しようとしていたけど、今は主観で痛みを理解するようにしましょう。